[diary] 社会のスピードについて行けなくなりました…

僕はついてゆけるだろうか、この世界のスピードに。

私が北欧を1ヶ月くらいかけての旅したときの話。(旅行なので当然見る範囲は自ずと限られてきますが)人々はとても生き生きとしているように目に映りました。その要因には人口が少なくのびのびと生活できることもあるでしょう。福祉制度や公共料金の違いもあるでしょう。世界有数の大繁華街である東京と比べることがそもそも間違いかもしれません。

私は真冬の頬を撫でる冷たい澄んだ空気が好きです。むしろ東京の冬は私にとっては暖かいくらいです。しかし、一歩外に踏み出すと、この日本の大都会を歩く人々の表情はいつも険しく、それが凍てつく寒波をさらに増長させているような、そして人々の温もりすら拭い去るような冷たさを含んでいるような気さえします。

気温や緯度からすれば、北欧の寒さは東京のそれに比べれば、それはそれは長く厳しいものです。しかしながら、私はその中に人々の温かみを感じることができたのです。

例を出すと枚挙に遑がありません。例えばそれは、空港に着くと右も左もわからない私を「一緒の方向だから」と言ってバスのチケットの買い方まで教えてくれた夫婦の話。例えばそれは、バーでたまたま隣の席になったというだけで見知らぬ私を仲間に加えてくれた愉快な大学生たちの話。例えばそれは、私がどっちの地下鉄に乗ればいいか迷っていると「どっちに乗っても同じ方に行くよ」と声をかけて助けてくれた現地人の話。今思い返しても、あのときの感謝をどう返して良いのかわからないくらいです。

さて、本題はここからです。私は今、就職活動なるものをしております。この活動が成功すれば、金銭的にも独立し、晴れて大都会を構成するメンバーの仲間入りとなるわけです。私は果たして、この大都市の一員に加わることができるのでしょうか。北欧の寒さとは一味違う寒空の中に溶け込むことができるのでしょうか。

まだ活動途中ではありますが、経過報告からさせていただくと、どうも東京という土地柄と寒さが私の肌には合わないみたいです。異質とも呼べるこの冷気に、私は吐き気や時に辛さゆえに涙します。「そんな弱音を吐いている時点でお前が脆弱なだけ、お前が甘いだけだ」と仰る方もいるでしょう。その通りだと思います。しかし屈強な人間がたくさんいる集団の中には、(良い表現が浮かびませんが)落ちこぼれ集団というのも少なからず存在するものなのです。今の私の中には、無理に取り繕ってまで優秀な集団に溶け込みたくないという願望すら覚えます。

昨今はインターネットを使ってお手軽にエントリーシートを作成し、何十社とそれを提出することができます。そうして私の経歴を目に留めた企業が面接してくださるのです。せっかく面接のための時間を設けてくださるのですから、私はできる限りの全力を持ってそれに挑みます。私のあるかないかわからないくらい小粒ほどのコミュニケーション能力を駆使し、なんとか場を盛り上げようとします。しかし最後には「志望動機が不十分」「情報のアンテナが低すぎる」「柔軟性がない」「違う分野の仕事を見渡してみては」と、丁重にお断りをされるのです。それ自体は良いのです。私にはその企業とご縁がなかった、企業に入ってから齟齬が生じる前に、手遅れになる前にそれを気づかせてくれたのだと思えるそのフィードバックには感謝できるのです。しかし、その瞬間から私はそのフィードバックを胸に別の企業を探し始めます。インターネットに常時繋がっているタブレットを駆使して、帰宅ラッシュに揺られながら就職活動サイトを眺めるのです。

…この一呼吸休む暇すら与えることを許さない、変体的かつ自虐的なスピード感に嫌気がさしてしまいました。

追い討ちをかけるように、それは企業の面接も私にとっては苦痛の他なりません。自ら課題を発見し解決する能力があって当たり前。自らインプット・アウトプットができて当たり前。プログラミングができて当たり前。グローバル化の波が進み英語を話せることが当たり前。海外経験があって当たり前。TOEICはハイスコアが当たり前。サークルやバイトでのリーダー経験があって当たり前。ボランティア経験があって当たり前。インターン経験があって当たり前。マルチタスクができて当たり前。どうやって測定されるのかわからないコミュニケーション能力は高くて当たり前。グループディスカッションで率先して発言したりまとめ役になることが当たり前。勤めたことのない企業を研究し熟知していて当たり前。わからないことはGoogleに聞いて自分から世界に繋がり調べることが当たり前。変化に柔軟に対応していくことが当たり前。時代の波に取り残されないことが当たり前。最先端でいることが当たり前。

ふと気がつくと、多種多様な能力が求められるこの社会のスピードについていけない自分がいたのです。

社会の速度は今、加速度的に増大しているように感じます。ということは、それについていける優秀な人間の数は限られていき、落ちこぼれの人数が増えることは当然のような気さえしてくるのです。

はて、北欧で感じたあのゆったりとした時間の流れと、自分の余裕はどこへ行ってしまったのでしょう。タブレットなんてなくても、観光案内所でもらったアナログの地図をポケットに、顔はキッと姿勢良く前を向いて、迷ったときは現地の人に道順を教わればそれで十分だったのに。仮に道に迷ってしまっても、たまたま入ったその路地に素敵なお店があるかもしれないではありませんか(実際にありました)。道を外れて途中で休憩を挟んでしまっても、その公園のベンチで素敵な出会いがあるかもしれないではありませんか(これもありました)。

ふと立ち止まると、今の私は様々な企業様と自宅との往復生活。敗北感を携えることでより背中を丸めながら、家路に着く日々を送っています。

技術は刷新を続け、人間は電子レベルのミクロな物理を用いてさらに演算の速い計算機を作り、はるか彼方の宇宙からの極限の物理のさざなみを捉えることに成功し、そして溢れんばかりのデータ量を駆使して社会問題を解決するようになりました。それ故に、世の中は現人類が類をみなかったほどの、複合複雑怪奇な社会へと変容を遂げています。果たして、このスピード感を制するものこそが世界をも制する覇者となり、私のような落ちこぼれは淘汰されていく運命にあるのでしょうか。それともこの地球のどこかに、まだ私のような時代遅れではあるがゆっくりと歩みを進めていく人間を必要とする社会があるのでしょうか。哲学と模索、そして目眩く就職活動はまだまだ続きそうです。

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